「辞める理由」ではなく、「辞めない理由」を問うという発想の転換─ 古屋星斗著『あの若手はどうして辞めないのか』を読んで ─

人事は、若手が会社を辞める理由ばかりを知りたがります。
なぜ辞めたのか。上司に問題があったのか。処遇に不満があったのか。仕事にやりがいを感じられなかったのか。
そして退職理由を分析し、その原因を取り除こうとします。
しかし、本当に退職者が語る「辞める理由」を、そのまま信じてよいのでしょうか。
この問題を考えるとき、私はルソーの『エミール』に出てくる「事実の嘘」と「権利の嘘」という区別を思い出します。
ルソーがいう「事実の嘘」とは、過去の出来事を事実に反して語ることです。一方の「権利の嘘」とは、未来の約束や義務について、それを果たす意思がないにもかかわらず約束することを意味します。
退職面談で語られる言葉は、厳密には、そのどちらとも言い切れません。
「キャリアアップしたい」「友人に誘われた」「新しい仕事に挑戦したい」といった理由が事実であるなら、それは「事実の嘘」ではありません。また、未来の約束を偽っているわけでもないため、「権利の嘘」とも異なります。
それでも、そこには別の嘘が潜むことがあります。
語っていることは事実であっても、語らないことの中に本音がある。
上司には言えなかった失望、成長機会への不満、職場での孤立感、評価への疑問、将来への不安。退職面談で語られる理由は、会社と円満に別れるための、社会的に受け入れられやすい説明である場合も少なくありません。
私はこれを、組織の関係性が生み出す「沈黙の嘘」と呼びたいと思います。
人事が表に出てきた退職理由だけを額面どおりに受け止めて対策を講じても、本質的な課題に届かないことがあります。
本書の優れた点は、この問いを見事に反転させたことです。
「若手はなぜ辞めるのか」ではなく、「転職という選択肢があるにもかかわらず、なぜこの会社を辞めないのか」と問い直したのです。
この発想はシンプルでありながら、極めて本質的です。
これまで多くの企業では、会社に残っている人に対して、あえてその理由を聞く必要はないと考えられがちでした。会社にいるのだから、特に問題はない。辞めると言い出してから理由を聞けばよい。そのように考えてきたのです。
しかし、会社に残っていることと、納得して働いていることは同じではありません。
仕事に意味を感じ、積極的に残っている人もいます。一方で、特に辞める理由がないから残っている人もいます。安定しているから、転職活動が面倒だから、あるいは次に何をしたいのか分からないから残っている人もいるでしょう。
外から見れば、全員が同じ「在職者」です。
しかし、その内面は大きく異なります。
本書は、「静かな退職」だけでなく、「静かな定着」という状態にも光を当てています。
静かな定着とは、会社への関与度が高く、退職意向も低いにもかかわらず、自分が会社を辞めない理由を職場や会社に語っていない状態です。本人の中には納得感があっても、その理由が組織には見えていません。
さらに、会社には残っているものの、働き続ける理由を明確に言葉にできず、積極的な納得にも至っていない人たちも存在します。
「辞めていない」という一つの事実の裏側に、納得、迷い、停滞、諦め、期待など、異なる状態が隠れているのです。
この違いを可視化したことは、本書の大きな貢献だと感じました。
だからこそ、人事や上司が問いかけるべきなのは、単に「辞めますか」ではありません。
「あなたは、なぜこの会社で働き続けているのですか」
この問いを通じて、社員自身が自らの「辞めない理由」を言葉にできるようになることが重要なのです。
しかし、このような対話は自然には生まれません。
そのための最も有力な場が、本来の1on1ではないでしょうか。
現在、多くの企業で実施されている1on1は、本来、部下の成長やキャリアを支援するための対話として導入されました。ところが現実には、目標管理の進捗確認や業務報告の場となり、上司と部下が互いに建前を交換する時間になっていることも少なくありません。
私は、日本で1on1が広まり始めた頃を思い出します。
当時、街ではタピオカが大ブームでした。その後、コロナ禍になると、タピオカ店の跡地がPCR検査場へと姿を変え、やがてまた別の業態へと移っていきました。
街の看板が次々と変わっていったように、1on1を取り巻く環境もまた大きく変化しました。
コロナ禍では、オンライン化によって、双方向の対話であるはずの1on1が、上司から部下への一方向的な確認や指示へと変質した企業も少なくありません。そして現在では、「形骸化した」「マンネリ化している」という声も聞かれるようになっています。
だからこそ、いま必要なのは、1on1という仕組みをただ続けることではありません。
1on1で交わされる「問い」を進化させることです。
「あなたは、なぜ辞めないのか」
この問いは、「今の仕事のどこに意味を感じているのか」「何があなたをこの会社につなぎ止めているのか」「ここで、これから何を得たいのか」という対話へと発展します。
部下が安心して「辞めない理由」を語り、その理由を上司とともに確認し、積み重ねていくことこそ、本来の1on1の姿なのではないでしょうか。
もちろん、「辞めない理由」を聞くことは、退職を思いとどまらせるための説得ではありません。
「給与が高いから」「転職が面倒だから」という答えを否定することでもありません。
大切なのは、本人が現在の自分と会社との関係を言葉にすることです。
理由が一つしかないのであれば、その一本の糸が切れた瞬間に、会社との関係も切れてしまいます。しかし、仕事の面白さ、信頼できる上司、尊敬できる同僚、成長の実感、顧客からの感謝、働き方の柔軟性、将来への期待など、複数の理由が積み重なっていれば、会社との関係は簡単には切れません。
本書で提示される12の「辞めない理由」は、若手を引き留めるための施策リストではありません。
社員と会社との接点を確認し、対話を深めるための実践的なフレームワークなのです。
さらに本書を読みながら、私は現在の情報環境についても考えさせられました。
近年、若手を取り巻く情報環境は劇的に変化しました。
SNS広告、短い動画、転職サイト、セミナータイトル、電車の中吊り広告まで、「もっと自分らしく働ける会社がある」「転職すれば人生が変わる」といったメッセージが毎日のように流れ込んできます。
その多くは、成功事例だけを切り取るチェリーピッキングです。
転職して年収が上がった人、新しい会社で活躍した人、自分らしい働き方を手に入れた人の物語は大きく紹介されます。しかし、転職後に苦労した人、新しい職場になじめなかった人、期待していた仕事と現実との違いに悩んでいる人の物語は、ほとんど表に出てきません。
今の会社で時間をかけて成長した人の物語も、短い動画や広告にはなりにくいものです。
短時間で大量の情報を処理することが求められる環境では、一瞬のキャッチコピーや印象的な成功物語に影響され、「自分も辞めたほうがよいのではないか」と考えてしまうこともあるでしょう。
アルゴリズムによって一人ひとりに送り込まれる「隣の芝生は青い」というノイズは、若者のキャリアに対するレジリエンスを静かに削いでいく可能性があります。
彼らは、「今いる場所で泥臭く咲くこと」の価値を学ぶ前に、「ここではないどこか」へ向かうショートカットばかりを見せられているのです。
だから企業は、「辞める理由」を減らすだけでは十分ではありません。
外から流れ込んでくる魅力的なメッセージに対して、それでも「私はこの会社で働き続けたい」と社員自身が語れる状態をつくることが重要になります。
企業が転職広告に対抗する広告をつくるのではありません。
社員が自分自身の経験を振り返り、「ここにいる意味」を自分の言葉で語れるようにするのです。
古屋氏が提唱する「辞めない理由」を積み重ねるという発想は、そのための極めて実践的なアプローチです。
人事KPIも見直す時期に来ているのではないでしょうか。
離職率だけを追いかけていると、会社を辞めてはいないものの、心が離れている社員の存在を見落とします。反対に、高い納得感を持って働いていても、その理由を誰にも語っていない社員の存在も見えてきません。
重要なのは、社員が「辞めない理由」をいくつ持っているか。そして、その理由を自分の言葉で語ることができるかです。
私は、その「理由の厚み」こそが、これからの組織の健全性を測る新しい指標になるように思います。
近年、人事関連書籍には、特定のサービスや研修、システムの導入へと読者を誘導する、いわばプロバイダー発の内容も少なくありません。
その中で本書は、緻密な定量調査と現場への丁寧なヒアリングをもとに、これまで誰も真正面から問わなかったテーマに挑んでいます。
これからの人事に求められるのは、退職という出口に厳重なセンサーを設置することではありません。
入社から退職までの道のりに、「この会社にいる意味」という道標を、社員とともに一つひとつ築いていくことです。
一冊を読み終えて強く感じたのは、「辞める理由」を分析する人事から、「辞めない理由」を育てる人事への転換こそが、これからの時代に求められるということです。
そして、その実践の場は、マンネリ化した1on1をやめることではなく、そこで交わされる問いを進化させることにあります。
退職面談で初めて本音を聞こうとしても、すでに遅いのです。
日常の1on1において、「あなたはなぜ、この会社で働き続けているのか」と問い続ける。その答えを社員と上司が一緒に育てていく。
本書は、1on1の原点を思い出させると同時に、その次のステージを示してくれる一冊でした。
シンクタンクだからこそ書くことができた第一級の研究成果として、多くの人事担当者、そして1on1を行うすべての管理職に推薦したい一冊です。
2026年7月吉日 筆 楠田 祐
今日の一句
辞めぬわけ
問えば心に
灯がともる
道しるべなり
明日へ根を張る
出展・参考文献
- 古屋星斗『あの若手はどうして辞めないのか―変わる社会と変わらない若者の本音』朝日新書1066、朝日新聞出版、2026年。
- リクルートワークス研究所「『辞めない理由』の研究」
- 古屋星斗「若手が『今の会社を辞めない』、12の理由」リクルートワークス研究所、2025年9月25日。
本文
- 古屋星斗「『静かな退職』と『静かな定着』―Quiet Committingという見えざる主役」リクルートワークス研究所、2025年6月23日。
本文
- 古屋星斗「総括:なぜ『辞めない理由』が重要なのか」リクルートワークス研究所、2025年9月9日。
本文
- リクルートワークス研究所「越境者が育むコミュニティー―『つながり』の再生の先にある循環型の未来図」2025年12月25日。
本文
- J-J・ルソー『エミール』今野一雄訳、岩波文庫、上・中・下巻、岩波書店。
- Jean-Jacques Rousseau, Émile ou De l’éducation, Livre II, 1762.
(ウェブ資料は2026年8月13日閲覧)
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