楠田祐の「人事・思想導標」vol.1

楠田 祐(人事思想・評論家)

NECなど東証一部企業3社の社員を経験した後にベンチャー企業社長を10年経験。会長を経験後に中央大学大学院ビジネススクール客員教授(MBA)を7年間経験。2015年は日テレのNEWS ZEROのコメンテーターを担当。2016年より人事向けラジオ番組「楠田祐の人事放送局」のパーソナリティを担当。2025年12月に370万ダウンロード達成。プロデュースする大企業の人事対象スクール卒業生は3000人以上。
シンガーソングライターとしても活躍し、これまでに5枚のCDアルバムを発売している。
テレビ出演歴は、フジテレビ めざましテレビ、テレビ東京 60秒で学べるNews 、テレビ東京 WBS(ワールド・ビジネス・サテライト)、日本テレビ シューイチ、日本テレビ NEWS ZERO 。

株式会社ABABAがメールマガジンを開始するにあたり、私も「人事・思想導標」というコーナーで情報提供ができることは、大変嬉しいことです。

今回は、人的資本経営について学べる海外の著名な学者についてご紹介しましょう。CHROを目指す方、または既にCHROの方でまだご存知ないとあれば、学んでおくことをお薦めします。

人的資本経営という言葉は近年になって急速に広まりましたが、その思想は突然生まれたものではありません。むしろ20世紀後半から続く経営学の流れの中で、徐々に形づくられてきた知的系譜の上に成立しています。

企業をいかに成長させるかという問いに対して、戦略、組織、人材、そして経営者という要素をどのように結びつけて考えるか。その探求の歴史をたどると、アルフレッド・チャンドラー、ゲイリー・ベッカー、ドナルド・ハムブリック、デイブ・ウルリッチという四人の研究者の議論が一つの思想の流れとして見えてきます。

人的資本経営とは、これらの理論を統合した実践的な経営思想であるとも言えます。

まず出発点となるのが1962年に出版されたチャンドラーの『戦略と組織』です。チャンドラーはアメリカ企業の歴史を詳細に分析し、企業の成長には明確なパターンがあることを示しました。それが有名な命題である「Structure follows strategy」、すなわち組織は戦略に従うという考え方です。

企業はまず市場や事業の拡大という戦略を決定し、その戦略を実行するために組織構造を変化させるという順序で進化するというのが彼の結論でした。

これは当時の経営観に大きな衝撃を与えました。なぜなら、それまで組織は固定された管理装置のように捉えられていたからです。

チャンドラーは企業の歴史を分析することで、組織は静的なものではなく戦略によって変化する動的な存在であることを明らかにしました。人的資本経営の観点から見ると、この理論は極めて重要な意味を持っています。なぜなら、戦略が変われば組織が変わり、組織が変われば必要とされる人材も変わるからです。

つまり企業が人材をどのように捉えるかは、戦略と組織の設計と不可分であるという視点がここで生まれたのです。

次に登場するのが1964年のゲイリー・ベッカーによる『人的資本』です。ベッカーは経済学の視点から、人間の能力や教育をどのように理解すべきかを理論化しました。それまで企業にとって人件費はコストとして扱われるのが一般的でした。しかしベッカーは、人間の教育や技能、経験、さらには健康に対する投資は、将来の生産性を高める投資であると考えました。

つまり人材はコストではなく資本であるという視点です。この考え方は経済学の世界だけでなく、企業経営の世界にも大きな影響を与えました。企業が教育や研修に投資することは単なる福利厚生ではなく、将来の価値創造に向けた資本投資であるという理解がここから広がっていきます。

人的資本経営という概念の核心はまさにここにあります。人材を費用として削減すべき対象として見るのではなく、企業価値を生み出す資本として捉えるという発想です。この視点は、後に人的資本情報の開示や人材投資の可視化といった議論へとつながっていきます。

次に重要な転換点となるのが1984年にドナルド・ハムブリックが提唱したアッパー・エシュロン理論です。ハムブリックは、企業の戦略や成果はトップマネジメントの特性を反映するという仮説を提示しました。

企業は単なる合理的な機械ではなく、意思決定を行う人間の認知や価値観によって形づくられる存在であるという考え方です。経営者がどのような経験を持ち、どのような価値観を持ち、どのような世界観で意思決定を行うかによって企業の戦略は変わります。この理論は、組織と人材の関係をさらに深いレベルで捉える視点を提供しました。

つまり企業の戦略は抽象的な計画として存在するのではなく、それを考え、決断する経営者の認知構造の反映であるということです。この視点から見ると、人的資本経営の核心は単に人材に投資することではなく、誰が意思決定を行うのかという問題にまで広がります。トップマネジメントの構成や多様性、経験の幅が企業の未来を形づくるという考え方は、現在の取締役会ガバナンスやサクセッションプランの議論にも直結しています。

そして1997年、デイブ・ウルリッチによって人事の役割そのものが再定義されました。ウルリッチは著書『Human Resource Champions』において、人事部門の役割を四つに整理しました。戦略パートナー、チェンジエージェント、アドミニストレーティブエキスパート、そしてエンプロイーチャンピオンです。

このモデルは世界中の企業に大きな影響を与えました。特に戦略パートナーという概念は、人事が単なる管理部門ではなく経営戦略の実行主体であるべきだという考え方を示しています。ここからHRビジネスパートナーというモデルが広がり、人事は経営と現場を結ぶ結節点としての役割を担うようになります。

チャンドラーが示した戦略と組織の関係、ベッカーが提示した人的資本という概念、ハムブリックが明らかにした経営者の認知の重要性、そしてウルリッチが実装した戦略人事の枠組み。これらを時系列で見ると、人的資本経営という思想がどのように形成されてきたかが見えてきます。

戦略が組織を規定し、組織が人材の配置を決め、人材の価値が企業の競争力を生み出し、その価値を最大化する仕組みとして人事が機能する。この流れこそが人的資本経営の思想史です。

つまり人的資本経営とは単なる人事の流行語ではありません。それは企業という存在をどのように理解するかという経営思想の進化の結果なのです。戦略、組織、人材、経営者、そして人事。この五つの要素を統合して企業価値を創造するための枠組みが、現在私たちが語っている人的資本経営の本質なのです。

そしてこれからの時代に求められるのは、この思想を単なる概念として語ることではなく、実際の組織設計や人材マネジメントの中に実装していくことです。人的資本経営とは過去の理論の延長線上にあると同時に、これからの企業経営を形づくる新しい実践思想でもあるのです。

人事は実務一筋のキャリアでCHROのタイトルを持つ方もいます。しかし、人事部長から大人事部長になってるCHROも見受けます。それは人事機能の統括を大きくしただけのCHROです。つまり「人事機能の総責任者」=拡張型人事部長のままと言えます。

では、なぜそうなるのでしょうか。日本企業では次の構造があるためです。まずは、人事が経営戦略の中心に入っていない。次にCHROが経営会議のコアではない。最後に人的資本が財務戦略と接続していない。ということです。

つまり、CHROを一言で説明すると、「CEOの戦略パートナー」なのです。皆さんの会社のCHROはいかがですか?CHROの皆さん自身はいかがでしょうか。

2026年6月19日 筆